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発見!いわた 「磐田の著名人」

江塚 勝馬 (えづか かつま)

1885(明治18)年~1970(昭和45)年
政治家・磐田用水東部普通水利組合主事
磐田用水の開通に貢献した

磐田郡向笠村笠梅(むかさむらかさうめ、現磐田市笠梅)に鈴木治平の四男として生まれ、後に御厨村鎌田(みくりやむらかまた、現磐田市鎌田)の江塚きくの養子となる。1902(明治35)年静岡県立農学校卒業。1914(大正3)年御厨村助役、1918年御厨村長、1928(昭和3)年御厨村会議員、1947年御厨村長、磐田用水東部普通水利組合管理者を務める。

かつて豊田郡・山名郡・周智郡等の村々は、敷地川(しきじがわ)・太田川・原野谷川(はらのやがわ)などの中小河川を水源としており、しばしば洪水や干害の被害が発生し、これは1944年に磐田用水が完成するまで続いた。水害を解消するため、1884年の社山疏水(やしろやまそすい)事業計画など、江戸から明治にかけて5回天竜川の水の導水計画がたてられたが、すべて失敗に終わっていた。

1930年、磐田用水東部普通組合が設立され、江塚勝馬は組合主事として用水完成に尽力した。その事業は、組合費歩合の決定、通過路線の位置、利水・治水の調整、用地の買収価格など問題が山積し、開戦によって物資・労力が減り事業費もかさんだが、資金は、金原治山治水財団の寄付によって賄うことができた。また、当時農務省地方食料増産督励員だった竹山祐太郎は、食料増産の観点からこの地で農業増産報国推進隊静岡方面集団作業訓練を行うとして、この工事に延べ2,576人を動員した。

こうして、磐田用水東部幹線約20キロメートルのうち工事未完了の約8キロメートルの水路の開削疎通工事を行い、1944年7月25日に通水式が行われた。後年、竹山祐太郎は、「磐田用水は何と云っても江塚さんの誠意に、私達の力を献げたに過ぎない。」と回想している。

参考文献

  • 新磐田用水誌編集委員会 「新磐田用水誌」 磐田用水東部土地改良区 2002年
  • 磐田用水土地改良区連合誌編さん委員会「水と人」磐田用水土地改良区連合 1983年
  • 磐田市教育委員会 「磐田の発展に尽くした人々」 磐田市教育委員会 1982年
  • 鈴木直之 『文人としての江塚勝馬翁』「磐南文化 第29号」磐南文化協会 2003年
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