発見!いわた 「磐田の著名人」

赤松 則良 (あかまつ のりよし)

1841(天保12)年~1920(大正9)年
静岡藩士、海軍軍人
『図説磐田市史』より 『旧赤松家 リーフレット』より

幕臣吉沢雄之進正範(よしざわゆうのしんまさのり)の次男として生まれ、実祖父赤松泰助(たいすけ)の姓を継ぎ、赤松大三郎(だいざぶろう)と称する。

坪井信良(しんりょう)らに蘭学を学び、1857(安政4)年蕃書調書句読教授方出役(ばんしょしらべしょくとうきょうじゅしゅつやく)を命じられ、オランダ語を生徒に教授した。また長崎海軍伝習所(でんしゅうじょ)に学び、勝麟太郎(りんたろう・海舟)らの親交をえた。1860(万延元)年には咸臨丸(かんりんまる)の測量方兼運用方として太平洋を横断した。1862(文久2)年幕府の留学生としてオランダへ派遣され、榎本武揚(たけあき)、津田真一郎(真道・まみち)・西周助(周・あまね)・伊東玄伯(げんぱく)・林紀(つな)・研海(けんかい)らとともに造船技術を学んだ。

1868(慶応4)年帰国、幕府瓦解に伴い遠州見付(磐田市)に移住し、沼津兵学校陸軍1等教授に任命された。附属小学校の掟書(おきてがき)を起草したり、その校舎を設計するなど、同じオランダ帰りの頭取西周をよく補佐し、兵学校の運営にあたった。磐田原(いわたばら)の茶園開墾にも着手した。

1870(明治3)年政府の徴命により上京、海軍兵学寮に出仕し大教授となった。以後、1874(明治7)年海軍少将・海軍太丞(だいじょう)・横須賀造船所長、1876(明治9)年海軍省副官・主船局長・機関本部長・国防会議議員、1886(明治19)年海軍造船会議議長・兵器会議議長、1887(明治20)年男爵・海軍中将といった経歴をたどり、1892(明治25)年から1917(大正6)年までは貴族院議員を務めた。

林研海・林董(ただす)・西紳六郎(周の養子)・榎本武揚らとは姻戚関係により義兄弟の間柄になる。

孫の照彦は初代磐田市長、磐田東高校理事長・校長を務めた。

参考文献

  • 磐田市誌編纂執筆委員会『磐田市誌 下巻』 臨川書店 1987年
  • 磐田市旧赤松家記念館「旧赤松家」(リーフレット) 磐田市教育委員会
  • 静岡新聞社『静岡県 歴史人物事典』 静岡新聞社 1991年
  • 磐田市史編さん委員会『図説 磐田市史』 磐田市 1995年