発見!いわた 「磐田の著名人」

大庭 八郎助 (おおば はちろうのすけ)

1793(寛政5)年5月3日〜1870(明治3)年8月2日
1793(寛政5)年5月3日〜1870(明治3)年8月2日

山名郡中島村(現磐田市福田中島)の代々庄屋の家で生まれた。先祖は、美作国(みまさかのくに・現在の岡山県)大庭郡橘左近庄に仕えた武士であったと伝えられ、それが大庭姓の由来と考えられる。

幼少の頃は吉六と名乗り、書法を習い、韻学(漢字の音韻を研究する学問)を独学で極めた。

16歳で父親を亡くし、若くして庄屋を継ぐこととなった。地域の人々の先導者となると、教育の必要性を感じ、自分の家を寺子屋として開放し、子弟の教育に情熱を傾けた。

筆子(ふでこ・生徒)は10歳から13歳位までの主に近隣の男子で、出席は自由。常時10人から30人位の出席で、農繁期には5、6人だった。授業内容は習字、読書を中心に作文、日常の手紙の書き方などで、「庭訓往来」や「四書五経」などが教材として使われていた。

八郎助の寺子屋で学んだ筆子の中から多くの有能な人材が出たが、特に優れた人物としては、福田地区初の代議士となった寺田彦太郎、医師の近藤平格、自治功労者の鈴木宗右衛門、土井彦七、藤田仙七などがあげられる。

晩年、八郎助は自画像を描き、それに「俗的な野心を捨て、清楚な生活の中に心中何のわだかまりもなく、時々親しい友人と酒を汲みかわしては話し合い、また、音楽を弄んで楽しんでいる今、小さいながらも校舎兼住宅を建てて住い、子供を教育する生活の中に無限の悦びを感じて生きていこう。」と記している。

没後1882(明治15)年10月、教え子350余人が集い、高塚(現在の中島高塚墓園)に位牌型の墓碑を建立した。

参考文献

  • 福田町史編集委員会 『郷土の先覚者たち』 福田町教育委員会 1980年
  • 福田町史編集委員会 『史跡をたずねて』 福田町教育委員会 1983年
  • 福田町史編さん委員会 『福田町の歴史』 福田町 2002年
  • 福田町史編さん委員会 『福田町史 資料編5 近現代』 福田町 2000年
  • 福田町文化財保護審議会 『福田町の史跡』 福田町教育委員会 2005年