発見!いわた 「磐田の著名人」

関 大和 (せき やまと)

生年不詳〜1849(嘉永2)年?
国学者
『竜洋町史 通史編』より

豊田郡掛塚村(現磐田市掛塚)の貴船神社の神主。敷知郡連尺町(ふちぐんれんじゃくちょう・現浜松市中区連尺町)伊勢屋の次男として生まれる。幼名林次郎。伊勢屋当主樋口家は国学者高林方朗(たかばやしみちあきら)と縁戚関係である。

1813(文化10)年、貴船神社の養子となる。同年4月22日、江戸に出て国学者平田篤胤(ひらたあつたね)に入門。篤胤の伴信友(ばんのぶとも・国学者、本居宣長の没後の門人)あての書簡に、「予が口真似を上手にいふ、をかしき人」と評されている。

翌年、貴船神社境内に国学の塾を開き、「千楯社(せんじゅんしゃ)」と名づけた。大和は掛塚においても江戸の篤胤、銕胤(かねたね・篤胤の養子)と頻繁に書簡を取り交わし、学問に励んだ。

1836(天保7)年、篤胤の著書『大扶桑国考(だいふそうこくこう)』の校正に携わった。

大和は、国を憂い、1816(文化13)年には国の大祓(おおはらえ)を行った。また異国船排除の祈祷を行ったり、アヘン戦争や黒船来航の情報を浦賀の船問屋から収集したりしている。

遠州には、大和を含め平田派の門人が8名いたが、彼らの結束力は強くはなく、内山真竜(うちやままたつ)を中心とした本居宣長(もとおりのりなが)系の国学者との交流が多くみられる。

掛塚からはその後、宇加井純素(うかいすみもと)、長谷川貞雄ら篤胤没後の門人が勤皇運動に参加し、明治維新に貢献するようになる。

参考文献

  • 竜洋町史編さん委員会 『竜洋町史 通史編』 磐田市 2009年
  • 竜洋町教育委員会 『郷土読本「ふるさと竜洋」改訂版』 1995年