発見!いわた 「磐田の著名人」

長谷川 貞雄 (はせがわ さだお)

1845(弘化2)年〜1905(明治38)年
尊王思想家(そんのうしそうか)であり、海軍主計総監(かいぐんしゅけいそうかん)を勤め、勅選貴族院議員(ちょくせんきぞくいんぎいん)となり中央政界で活躍した
長谷川 貞雄(はせがわ さだお)

1845(弘化2)年5月20日、浜名郡雄踏町宇布見の名門中村家に生まれ、直ちに遠江国豊田郡川袋村(とおとうみのくに とよたぐん かわぶくろむら)(現磐田市川袋)の、長谷川家の養子となった。長谷川家は神官と酒造業を営む。両家の関わりは国学者であった中村家27代当主の時代から始まったとされる。当時、国学が神職の間で盛んであった関係から両家は懇意となり、代々縁戚関係を構築するに至った。

長谷川貞雄は国学者の賀茂真淵学派に出入りし、1867(明治元)年の有栖川宮織仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)の東下りに際しては、遠州報国隊の結成に参加した。翌年には函館の役に参加して功名をたて、兵部省会計権佐(ひょうぶしょう かいけいごんのすけ)となり、英国軍艦停泊の際に海軍省へ派遣される。これにより海軍会計法を研究、海軍主計総監への道を開いた。

晩年は浜松に住み、大日本帝国水難会救済顧問、(だいにっぽんていこく すいなんきゅうさいかい こもん)大日本水産会幹事、遠州奨学会会長、西遠教育会総裁、掛塚町在郷軍人会総裁(かけつかちょう ざいごうぐんじんかい そうさい)、芳川銀行頭取などを勤めた。他にも遠州地方公共諸団体の主要な役職を担い、1902(明治35)年には浜松裁縫女学校を創立した。

貞雄は歌人としても活躍し、『寝覚集』(ねざめしゅう)という歌集を残している。また故郷への思いも深く、実現はしなかったが東海道本線の掛塚通過誘致に努め、郷土の発展にも尽力した。

1905(明治38)年2月8日病没。墓地は浜松市の鴨江寺境内にあったが、都市計画により鎌倉市の鎌倉霊園に移されている。川袋の八雲神社には1931(昭和6)年12月、長谷川貞雄の業績を称え、公徳碑が建立された。また浜松市の賀茂真淵記念館には、写真を付した石碑が残されている。

参考文献

  • 竜洋町教育委員会/編 『竜洋町の史跡・文化財』 竜洋町教育委員会 1993年
  • 鈴木 潔・渡辺 明子/著 『郷土の生んだ偉人』 竜洋町郷土研究会 1996年