発見!いわた 「磐田の著名人」磐田の著名人

林 鶴梁 (はやし かくりょう)
1806(文化3)年〜1878(明治11)年

幕臣、儒学者

上野国群馬郡萩原村(現群馬県高崎市)に生まれ、幕臣となったといわれる。名は長孺、通称伊太郎。長野豊山(ほうざん)や佐藤一斎(いっさい)、松崎慊堂(こうどう)に儒学を学び、後に幕府代官の三学の1人に挙げられた。嘉永6(1853)年9月江戸を発ち、23日に中泉陣屋に到着し、5年間在任した。

当時遠州の天領では、前任の代官岡崎兼三郎が病気のため死去したあとで、その役人と結んで悪事を働いたと疑われた郡中総代(ぐんちゅうそうだい)や郷宿(ごうやど)が、民衆の非難を浴び大きな騒ぎになっていた。幕府はこれを鎮めるためにも、選んで鶴梁を派遣した。鶴梁は罪人を出すこともなく、寛大な処分で年内にはほとんど解決することに成功し、遠州の人々の信頼を得ることができた。

翌嘉永7(1854)年正月10日、黒船(ペリー提督の率いるアメリカ東インド艦隊)が御前崎沖を東へ進むとの急報があり、直ちに江戸へ通報すると共に、浜松、掛川、横須賀の各藩に警戒防禦(ぼうぎょ)のため出兵を要請し、鶴梁自身も12日の夜明け中泉陣屋を出発、御前崎に出陣し諸藩を指図した。黒船は去って14日には帰陣したが、身心の疲労が重なり体調を崩した。

嘉永7年11月4日午前9時頃、震源地が駿河湾沖と推定されている大地震が襲来した。中泉陣屋の建物の多くは倒れ、市域の町や村も大きな被害があり、鶴梁は配下の役人と被害地を見て廻り、江戸へ報告するとともに、救済活動を始めた。窮民(きゅうみん)に備蓄米(びちくまい)やお金を支給するだけでなく、山伏を集めて中泉陣屋内で7日間にわたり地震鎮め(しずめ)の大護摩祈祷会(おおごまきとうえ)を行い、鶴梁自身も断食(だんじき)して祈った。安政2(1855)年7、8、9月と地震で傷んだ堤が破れ、大水害が続いて起こり、鶴梁は遠江・三河の幕領の村々を見て廻り米金を与え見舞った。このような度重なる災害の経験から鶴梁は、従来の備蓄方法では1ヵ月ほどしか支えられないため、永続して窮民を救済する方法を考案し、恵済倉(けいさいぐら)と名づけた。この事業は後任の代官にも引継がれ、明治になって資産金貸付所創設の資金となり、公共のために役立った。窮民救済の考え方も長く引継がれた。また鶴梁は三河、遠江の支配地を廻り、詳細で正確な地図の必要を感じ、新しい三遠(さんえん)地図を作った。

鶴梁はその学問と見識によって、大名では水戸藩の徳川斉昭(なりあき・烈公れっこう)、信州松代藩主真田幸貫(さなだゆきつら)、福井藩主松平慶永(まつだいらよしなが)、佐賀藩主鍋島直正(なおまさ・閑叟かんそう)、土浦藩主土屋寅直(ともなお)ら、幕末維新期の名君といわれる大名と親交があった。その家臣の藤田東湖(ふじたとうこ)、会沢正志斎(あいざわせいしさい)、大久保要(おおくぼかなめ)ら志士と呼ばれる人たちと親交があり、福井藩士の橋本左内(はしもとさない)も中泉陣屋に2度鶴梁を訪ね、熱心に意見を交わしている。川路聖謨(かわじとしあきら)・岩瀬忠震(いわせただなり)、大久保一翁(おおくぼいちおう)、羽倉簡堂(はぐらかんどう)とも親交を結んだ。遠州の人では国学者石川依平(いしかわよりひら)、見付の画家福田半香(はんこう)、三宅鴨渓(おうけい)、浜松の医師渡辺玄知(わたなべげんち)、袋井宿の孤瑟(こしつ)とも親しい間柄だった。

著書に「鶴梁文鈔」「鶴梁日記」がある。

参考文献

  • 磐田市誌編纂執筆委員会 『磐田市誌 下巻』 臨川書店 1987年
  • 静岡新聞社 『静岡県 歴史人物事典』 静岡新聞社 1991年
  • 磐田市史編さん委員会 『図説 磐田市史』 磐田市 1995年