発見!いわた 「磐田の著名人」

水野 惣兵衛 (みずの そうべえ)

1781(明和5)年〜1855(安政2)年

江戸時代後期の開拓者。平松村(現磐田市平松)の歴代の有力名主であった登屋(のぼりや)の次男。掛下村の横井伝右衛門と同時期に新田開発を行った。旧豊岡村の惣兵衛下新田の地名は、彼の名前に由来している。

水野惣兵衛の先祖である、水野治郎左衛門・孫右衛門・孫左衛門の三兄弟は農業を志して、平松の里に移り住み荒地の開拓をした。三人は水難の守り神として宮坂に小さな社を作って祭り、治郎左衛門は神主として神を祭るかたわら、兄弟で力をあわせて開拓に精を出したという。その努力が認められて孫右衛門は名主となり、孫左衛門は組頭(くみがしら)となって、郷内の開拓に尽くした。

水野惣兵衛は孫右衛門の子孫である。孫右衛門の家では宝暦年間(1751〜1761)に忠四郎と名を改めて代々「忠四郎」を名乗り、屋号を登屋とよんでいた。

文化年間(1804〜1817)に忠四郎の弟栄吉は分家して、荒地の開拓をしていたが後継者が育つと家督を息子に譲り、自分は「惣兵衛」と名を変えた。1833(天保4)年に代官所から新田開発のため組頭役に任じられた。

1835(天保6)年に惣兵衛は荒地を開拓した惣兵衛新田に家作りをし、名主役に任じられ、平松村の宗門改人別帳(しゅうもんあらためにんべつちょう)から除外された。そのとき惣兵衛は54歳で、惣兵衛新田は家数1軒、村人数4人であった。4人とは惣兵衛と妻と息子、養女であった。

その後も開拓を進め、彼が開拓した地域の面積は20町歩になった。しかし新田開発は水害で計画は大きく狂い、借金に苦しんだという。

1888(明治21)年、4月25日市制及び町村制が新たに公布されて、翌年広瀬村ができたとき、いままで平松村の属地扱いであった惣兵衛新田も独立して「惣兵衛上新田」「惣兵衛下新田」となった。「惣兵衛下新田」は現在も地名として残っている。

参考文献

参考文献

  • 岩崎道夫『豊岡物語 増刊号』 豊岡村 1988年
  • 豊岡村社会科資料作成委員会『わたしたちの豊岡』 豊岡村教育委員会 1991年
  • 豊岡村社会科資料づくり委員会『わたしたちの豊岡村』豊岡村教育委員会 1994年
  • 豊岡村史編さん委員会『豊岡村史 通史編』 豊岡村 1995年
  • 豊岡村史編さん委員会『豊岡村百話 豊岡村史別巻』 豊岡村 1996年