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発見!いわた 「磐田の著名人」

池田 忠一 (いけだ ちゅういち)

1850(嘉永3)年~1934(昭和9)年
政治家(豊田・山名・磐田郡長)

江戸下谷(したや、現東京都台東区)に生まれる。1871(明治4)年、静岡に移住し、1877年、県庁に出仕した。1883年、佐野(さや)・城東(きとう)(現掛川市)郡長となり、1885年、豊田、山名、磐田郡長となる。

当時は天竜川からの用水路が未整備で、地域によって水をめぐる状況に違いが大きかった。天竜川沿岸の広瀬、野部(のべ)地区は、天正年間に設置されたといわれる天竜川から引かれた寺谷用水により恩恵を受けていたが、敷地川・太田川・原野谷川など中小河川に頼っていた豊田郡、山名郡、周智郡、城東郡の村々はしばしば干害にあっていた。これを解決するため、天保2(1831)年に幕府の普請役犬塚祐一郎が提案した今日の「社山疏水」にあたる用水事業にそって、明治にかけて5回にわたり天竜川の導水が計画されていたが、いまだに完成していなかった。

1883年、再び新用水開設が計画された。この構想は上野部村字神田地内から天竜川の水を引き入れ、社山(現磐田市社山)で隧道(トンネル)を掘り水を落とし、浅羽方面まで水を引くというもので、1884年2月、社山疏水工事が着工され、1885年1月には神田隧道が完成した。しかし、地元負担金に耐えられない村からこの事業より離脱しようとする動きが起こった。この時期に豊田・山名・磐田郡長に就任したのが池田であった。

自著『朝露の覚』によれば、1885年6月に静岡県知事関口隆吉(たかよし)の自宅に招かれ、饗応を受け、豊田、山名、磐田郡長への転任を内命された際、初め池田はそれを固辞した。その大きな理由のひとつが「社山(やしろやま)疏水」の難工事であったという。

しかし、池田は郡長に就任後、郡役所にはほとんど出勤せず連日村々を巡視し、「社山郡長」と呼ばれるほど奔走した。池田と県の職員は地元と協議を重ね、また、関口知事が私費を投じたりした結果、工事は続行された。ところが1887年、石水門その他の設計の不備が確認され、翌年8月工事続行は断念された。この中止された社山疏水事業は、およそ60年後、磐田用水東部幹線として実現した。

1902年、池田は郡長を退き、中遠農会長、磐田郡農会長となり、耕地整理事業に尽力した。

参考文献

  • 静岡新聞出版局 『静岡県歴史人物事典』 静岡新聞社 1991年
  • 豊岡村史編さん委員会『豊岡村史 通史編』 豊岡村 1995年
  • 豊岡村史編さん委員会『豊岡村百話』 豊岡村 1996年
  • 新寺谷用水誌編纂委員会 『新寺谷用水誌』 寺谷用水土地改良区 1986年
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