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発見!いわた 「磐田の著名人」

伊藤 七郎平 (いとう しちろべい)

1829(文政12)年~1899(明治32)年
報徳運動の普及・実践家

遠江国周智郡森町村(現・周智郡森町)の山中勘左衛門豊平(とよひら)の七男として生まれた。4歳の時、豊田郡一言村(ひとことむら、現・磐田市一言)の伊藤善右衛門の養子となる。16歳の時、家督を相続し旗本皆川氏に仕える。明治2(1869)年、皆川家を辞し深見村(現・袋井市深見)に移り農業に従事する。農村疲弊の立て直しなど報徳の活動を実践した。

「報徳」とは、幕末の北関東各地において窮乏した藩の立て直しや個人の家政回復を行った二宮尊徳の教えを中心とした思想をいい、窮乏した農村の復興や個人の家政回復、あるいは低金利貸付(報徳金貸付)、農事改良などを行った結社(報徳社)、または個人の動きを「報徳運動」とよんでいる。「報徳運動」は明治以降、静岡県に急速に広まった。遠州地方には尊徳の門人の安居院(あごいん)庄七とその弟浅田勇次郎により関西の先進的な農業技術とともに伝えられた。

伊藤七郎平は嘉永年間(1848~1854年)の頃、安居院庄七に出会い報徳の教えを受けた。遠江国報徳社設立時には幹事に就任し、1884(明治17)年、見付に遠江国報徳社本社第二館が設けられた時には定詰めとなり、中遠地方の報徳運動において中心的な役割を果たした。豊田郡深見村や山名郡中野村(現・磐田市豊浜中野)、豊田郡虫生村(むしゅうむら、現・磐田市虫生)の復興を指導した。

虫生村では1880年、助郷役や度重なる借金のため窮乏したため遠江国報徳社に仕法を頼むことになり、伊藤七郎平らが派遣されて報徳の復旧仕法が実施された。村の負債状況の調査があり、村民に議定書を作成させた。報徳金を借用し、その返済のため村民には徹底した質素と倹約と出精が要求された。虫生村の仕法は1889年12月に終了した。1890年3月に報徳社が設立され、仕法の成果の永続性がはかられた。

参考文献

  • 静岡新聞出版局「静岡県歴史人物事典」 静岡新聞社 1991年
  • 豊岡村史編さん委員会「豊岡村史 通史編」豊岡村 1995年
  • 磐田市史編さん委員会「磐田市史通史編下巻近現代」 磐田市 1994年
  • 鷲山恭平「伊藤七郎平翁」大日本報徳社第二館 1916年
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