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発見!いわた 「磐田の著名人」

大竹 温 (おおたけ おん)

1857(安政4)年~1952(昭和27)年
漢学者・漢詩人・書家

大竹 温(おおたけ おん)または万吉 雅号:蒋逕(しょうけい)
1857(安政4)年、遠江国山名郡福田(ふくで)村の庄屋(通称:万吉様)の家に生まれる。幼名は太吉または太助。

学問の道に進めさせたいという父親の希望により、幼少の時より中野町(現・浜松市)まで勉学に通い、後に自らも向学心を持ち勉学に励む。笠井町(現・浜松市)の小栗松靄(しょうあい)より約5年間漢詩漢学の基礎を学ぶ。また、書を見付出身の古田桂所(けいしょ)に、経史を常盤応斎に学んだ。

その後、小野湖山の門下となって漢詩を学び他の子弟の模範となるなど、湖山の賞賛を得るまでになる。そして、東京に出て漢学詩学を研究したのち、小野湖山が京都に転居するのと同じくして京都に移った。

京都では谷如意山人の教えを乞い、当時、京都に多く集まっていた漢学者たちと共にしのぎを削って研究に努める。

18年の勉学の後、恩師の許可を得て松竹幽居を庵号として「以興吟社」を組織し、子弟の教育に力を尽くす。その教育により京都、近江の門弟のみで各々吟社をつくるなど、教育においても力を発揮するなど、漢学の第一人者となり『松竹幽居 第一集』など多くの著書を世に出すまでになる。

また、書も高く評価されており、福田の六社神社に掲げてある額も温によるものである。

その後も雑誌、新聞等で漢詩の選者としても活躍。1928(昭和3)年惜しまれつつも福田に帰郷し松籟軒(しょうらいけん)を建て、悠々自適の生活を送る傍ら、近郷の識者の求めに応じて後進の指導に当たる。なかでも見付中学校(現・磐田南高校)初代校長の尾崎楠馬は漢詩を学ぶため、温の帰郷の翌年から温が亡くなるまで熱心に通ったという。

1952年に逝去。享年97歳。

※吟社…詩歌を作るための結社

 

参考文献

  • 福田町史編集委員会 福田町教育委員会 「郷土の先覚者たち」 福田町教育委員会 1980年
  • 尾崎楠馬先生遺稿集刊行会「尾崎楠馬先生遺稿集」 尾崎楠馬先生遺稿集刊行会 1962年
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