発見!いわた 「磐田の著名人」磐田の著名人

福田 半香 (ふくだ はんこう)
1804(文化元)年〜1864(元治元)年

江戸時代末期の南画家
『磐田市資料叢書第3集 近世・近代磐田の画人』 より

見付(現磐田市見付)に生まれる。生家は見付宿の脇本陣隣の旅籠で、父の代から役人であったと伝えられる。

10歳頃から掛川藩の絵師村松以弘(いこう)について絵を学び、初めは磐湖(ばんこ)と号した。父の死後1824(文政7)年、江戸に出て勾田台嶺(まがた たいれい)につくが、1年ほどで帰郷、見付に3年ほど滞在した後、各地を旅した。1833(天保4)年4月6日、田原(現愛知県田原市)で、江戸より出向いていた渡辺崋山(かざん)と出会ったことが、崋山の記録『客参録』に記されている。それには半香が勾田台嶺に学んだことや、山水花禽(さんすいかきん)を得意とすることなどが書かれている。

1834(天保5)年、再び江戸に出て、改めて崋山の門人となり、1838(天保9)年、江戸麹町三軒家に初めて家を構えた。しかし翌年の「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」により、師崋山は投獄され、続いて田原への蟄居(ちっきょ)処分となる。蟄居中の崋山は、再び画業に専念したが経済的に困窮し、崋山を支援しようと半香が計画した画会は、不謹慎であると世間の噂となり、結果的に1841(天保12)年、崋山を自刃へ追い込むこととなった。

その後1859(安政6)年頃、三軒家の根岸に転居し、松蔭村舎と称した。1864(元治元)年8月、61歳にて没。渡辺崋山の菩提寺でもある小石川の善雄寺に墓がある。

半香の絵は、緻密な描写の着色画と、大胆に山水を描いた水墨画に大別される。前者は若い頃(特に天保年間)に多く、後者は嘉永年間(1848〜1853)の作品に多くみられる。着色で緻密な画題と描写は、崋山の弟子としての修行の過程であったとも考えられる。晩年の山水水墨画は、崋山の作品には見られないものであり、1841(天保12)年の崋山の自刃により、多大な精神的打撃を受けたが、次第に水墨画のなかに独自の境地を開いていったといえよう。

参考文献

  • 磐田市教育委員会 『磐田市資料叢書第3集 近世・近代磐田の画人』 磐田市教育委員会 1999年
  • 日比野秀男ほか 『定本 遠州の南画』 静岡郷土出版社 1989年