平野三郎右衛門重定 (ひらのさぶろううえもんしげさだ)
生年未詳〜1624(寛永元)年
寺谷用水の開発者。美濃国(みののくに)平野庄(現岐阜県安八郡神戸町<あんぱちぐんごうどちょう>)出身で、斎藤道三と織田信長との戦乱を避け、一族で遠江国豊田郡加茂村(現在の磐田市加茂)に移り住んだと伝えられている。最初、今川氏に仕えたが今川氏が滅亡した後、引馬(曳馬)城主の飯尾氏と共に徳川家康に従ったという。1572(元亀3)年武田信玄が遠江国に攻め入った際、家康は重定に加茂に砦をかまえさせた。翌年武田軍の夜襲を受けた際、これを撃退した。この時の戦で重定の妹おこんにまつわる伝説が残っている。
その後、遠江国のすべてが徳川氏に帰すると、家康は後に中泉代官となる伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)に天竜川の治水と新田開発を命じ、重定もこれに従った。
この頃、寺谷付近より分かれて磐田原の西を流れる天竜川の支流があり、これを重定は3年ほどの期間で用水として改修して寺谷用水を完成させ、天竜川の豊富な水を引き入れ、新田を開発すること2万石に及んだという。
重定が当初指揮して掘りあげた12キロの堀は、「大井堀」と呼ばれ、豊田南地区の「井通村(いどおりむら)」の名前の由来ともなっている。
参考文献
- 郷土を考える会/編 「ふるさと豊田 改訂版」 豊田町教育委員会 1977年
- 豊田町誌編さん室/編 「豊田町誌 通史編」 豊田町 1996年
- 新寺谷用水誌編纂委員会/編 「新寺谷用水誌」 寺谷用水土地改良区 1986年