平野 又十郎 (ひらの またじゅうろう)
1853(嘉永6)〜1928(昭和3)年
1853(嘉永6)年12月27日、長上郡掛塚村(ながかみぐん かけつかむら)(現磐田市掛塚)に廻船問屋・山文(やまぶん)(中宿川口屋)(なかじゅく かわぐちや)の当主、林文吉(はやし ぶんきち)の八男として生まれる。幼名を八郎(はちろう)、後に幹造(かんぞう)と改め、家督を相続して又十郎と云う。
1865年(慶応元年)敷知郡舞阪宿(ふちぐん まいさかじゅく)(現浜松市西区舞阪)の商人宿兼荷物問屋 堀江善吉(ほりえ ぜんきち)方へ養子となる。向学心の高い幹造は近隣の寺に通い漢書を習っていたが、明治維新で社会が大きく変化したことから養家の仕事に不安を抱き1870(明治3)年東京へ旅立った。当時の大蔵省監督権頭岡村義昌(おかむら よしまさ)の住み込み書生となる。間もなく岡村氏が兵庫県大参事に栄転したため随行し、小野組神戸支店に勤務。英語や洋式簿記を学び、貯蓄の必要性を学んだ。神戸支店が閉店となり掛塚へ帰った後、堀江家との養子縁組を解消。その後1877(明治10)年4月、林家遠縁にあたる貴布祢村(きぶねむら 現浜松市浜北区貴布弥)の豪農、平野又衛門の婿養子となる。同年養父の死去により、家督を相続して名前を5代目又十郎に改めた。村人に貯蓄の必要性を説いてまわり、 1879(明治12)年「同心遠慮講」(どうしんえんりょこう)という貯蓄組合を作る。これは『遠きを慮りなきものは、近きに憂いあり』ということわざから生まれ、村民に非常な共鳴を呼んだ。続いて1883(明治16)年には資金貸付事業を行う「永世社」(えいせいしゃ)を作り、銀行機能の基礎を築いた。翌年には「舞阪西遠商社」(まいさか せいえんしょうしゃ)を作り、舞阪町を中心に商取引や金融事業を行う。さらに翌年1885(明治18)年には浜松市伝馬町(てんまちょう)に「西遠銀行」(せいえんぎんこう)を設立。「西遠銀行」は他銀行との合併を重ね、1920(大正9)年6月1日に「遠州銀行」(えんしゅうぎんこう)となった。当時の大蔵省の方針でその後も諸銀行との合併は続き、1926(大正15)年3月に「新遠州銀行」として県内三大銀行のひとつにまで発展した。
また金原明善(きんぱら めいぜん)との親交により社会事業も行い、植林や慈善事業、浜松高等家政女学校創設に関わるなど教育にも貢献した。1902(明治35)年には財団法人「平野社団」(ひらのしゃだん)を設立し海外へ進出、朝鮮での植林や百貨店経営などを行った。
銀行家としての地位を築いた又十郎は75歳で自ら職務を退き、翌年の1928(昭和3)年3月8日、病により76歳で没した。彼の死後「新遠州銀行」を含む県内三大銀行は合併し、現在の静岡銀行となった。
参考文献
- 御手洗 清 『遠州偉人伝 第1巻』 浜松民報社 1962年
- 平野静男 『平野又十郎 家事要件録』 平野繁太郎 1989年 非売品
- 竜洋町教育委員会 『竜洋町の史跡・文化財』 竜洋町教育委員会 1993年
静岡県西遠地方の銀行組織を最初に作り、「静岡銀行」の基礎を作った