福長 浅雄 (ふくなが あさお)
1893(明治26)年〜1980(昭和55)年
長上郡飯田村三郎五郎新田(ながかみぐんいいだむらさぶろうごろうしんでん・現浜松市南区大塚町)生まれ。
1910(明治43)年、徳川好敏(よしとし)大尉の日本人初飛行のニュースに触発され、埼玉県所沢にて、徳川大尉の無給助手として航空機の組み立て、調整方法などを学んだ。その後製材業に打ちこみ、資金を工面し、1918(大正7)年、千葉県津田沼の伊藤音次郎飛行研究所の門下生となり、飛行技術を身につけた。
1919(大正8)年5月、磐田郡掛塚町(かけつかちょう・現磐田市掛塚)の天竜川左岸河川敷に、福長飛行機研究所を設立、飛行機の製作や飛行士育成のために、約4.3平方キロメートルの福長飛行場を付設した。教官には弟の四郎、五郎があたり、浅雄は飛行機の製作に力を注いだ。天竜川河口への建設は、東京と大阪の中間地点として、東西の情報が迅速に入る、天候不良の際にも海岸線に沿って低空飛行で河口を目標に安全に着陸できるとの理由で選ばれた。
1921(大正10)年10月10日、経営の合理化をはかるため会社組織とし、株式会社福長飛行機製作所を設立した。1922(大正11)年10月、2年あまりの歳月と36,000円の費用をかけ、国産初の6人乗り旅客機「天竜10号」(全長9.4メートル、全幅12.95メートル、300馬力、複葉機)を開発した。陸軍省航空局の性能試験には合格したが、法整備がないことから営業での実用はかなわなかった。天竜10号は時速180キロメートル、滞空時間4時間の性能であった。
1923(大正12)年9月1日の関東大震災の際には、交通網、電信、電話網が寸断されたため、福長機が唯一の輸送動脈となり、情報伝達や物資の輸送などに活躍した。
福長飛行機製作所の1922年の財産目録によれば、所有飛行機10機、営業開始以来半年間に製造した飛行機は3機であった。製作所は1928(昭和3)年、天竜川の改修工事により閉鎖され、浜松市の三方原に移転した。
浅雄はその後、会社経営などに携わり、航空界への復帰はしなかった。現在、彼の母校である浜松市立飯田小学校に顕彰碑が建てられている。
蟹町地先の福長飛行場、後の格納庫は西小学校の旧体育館に転用された
『郷土読本ふるさと竜洋改訂版』より
*飛行機の宣伝文は、磐田市歴史文書館所蔵の複写資料(文書館もコピーしか持っておらず、出典不明)
大正11年の福長飛行場=手前は天竜第6号(その向こう・ソッピース1型、後方・ニューポール83型)、左端は中島式5型(向こう・ニューポール24型の胴体、後方・天竜第3号)、一番奥は天竜第7号
主翼上の燃料タンクを取り外して一部改造した天竜第10号旅客機=大正12年6月、掛塚で
『空駆けた人たち 静岡民間航空史』より
参考文献
- 竜洋町史編さん委員会 『竜洋町史 通史編』 磐田市 2009年
- 竜洋町史編さん委員会 『竜洋町史 資料編Ⅱ近現代』 磐田市 2006年
- 静岡新聞社出版局『静岡県歴史人物事典』静岡新聞社 1991年
- 竜洋町教育委員会『郷土読本「ふるさと竜洋」改訂版』 1995年
- 磐田市教育委員会文化財課 「磐田市内文化財案内図」 2007年
- 中日新聞 2009年9月20日朝刊 「磐田の福長飛行場」
- 平木国夫 『空駆けた人たち 静岡民間航空史』 静岡産業能率研究所 1983年