山本 愛山 (やまもと あいざん)
1848(嘉永元)年〜1898(明治31)年
画家
見付(現磐田市見付)に生まれた。幼名を栄次郎、後に訓、通称を常蔵、画号を愛山、画室を包山帰雲楼といった。渡辺小華(わたなべしょうか・渡辺崋山の息子)の門人であるという。
家業はもと酒造業「境松屋(さかいまつや)」といったが、いつのころからか縫箔業(ぬいはくぎょう)となった。金糸・銀糸を用いて刺繍をしたり、金箔や銀箔を模様部分に漆で貼りつけるという、繊細で修練を要する仕事である。
少年時代は、倉真村(くらみむら・現掛川市倉真)の岡田良一郎(りょういちろう・号淡山)の家塾へいったが、病弱で断念。家業を継ぐかたわら、余技として好きな画道を志した。
京都へでて縫箔の修業を重ね、生まれつき器用で手技に優れており、竜虎の紋様や舞台背景の書割りなど得意であったという。その後 三州田原(現愛知県田原市)へ渡辺小華を訪ねて、門人となった。
1887(明治20)年、日本美術協会が設立されたとき、「鷹雪中梅図」を出品して3等賞を受賞。また1894(明治27)年明治天皇御大婚25年祝典に絵画一幅を献納した。
師の影響からか、愛山の作品も自ずと華やかな花鳥画のみであり、師の作品に比肩するほどのものもある。しかし現存する作品は極めて少ないが、1898(明治21)年春、死去数ヶ月前に花鳥画の愛山が「蜀道瑞雪図」を描いている。
1898(明治21)年8月没、51歳。中泉の満徳寺に墓がある。
参考文献
- 磐田市書画鑑賞会 『磐田ゆかりの名士展』 1998年
- 磐田市教育委員会 『磐田市資料叢書 第三集 近世・近代 磐田の画人』 磐田市教育委員