発見!いわた 「磐田の著名人」磐田の著名人

大橋 幡岩 (おおはし はたいわ)
1896(明治29)年~1980(昭和55)年

ピアノ設計・製作者
「人技あればこそ、技人ありてこそ」より

浜松市の竜禅寺の僧侶の息子として生まれる。父が病弱だったため、隠居していた磐田郡池田村(現磐田市池田)の大橋庄吉の三男として入籍、後に母の再婚先、真島家で育つ。

1909(明治42)年、日本楽器(現ヤマハ)に技術見習生として採用される。

天竜川上流からの木材の集散地だった池田で育ち、舶来の製材機の動きを飽かず眺め、機械の素晴らしさに魅了されたことが、後のピアノの名匠、幡岩の素地を作ったと言われる。

また、学業成績は優秀で、日本楽器の見習生だった10代の頃から数学や語学(英語・独語)を猛勉強し、当時アメリカで大流行中の自動ピアノのメカニズムについても原書から学んだ。

1937(昭和12)年、日本楽器退社。東京の小野ピアノ製造所工場長就任。1947年6月、浜松楽器製造所と技術提携してピアノ製作にかかる。翌年10月、ピアノ3台完成、後に称賛されるディアパソンピアノの誕生である。

ディアパソンは音楽用語で音の基本という意味。幡岩のピアノ製作にかける信念通りの名作だった。

浜松楽器は月産70台ほどで、一流のピアニストや音楽家の支持を受け、常に品不足となっていた。しかし、ヨーロッパの一流楽器製作者と同じ方針を貫き、量産体制を取ることはなかった。浜松楽器は全国各地の楽器店、技術者の支持を得て、堅実にシェアを広げていった。

1977年11月、静岡県優秀技能者表彰受賞。このほか、勲六等単光旭日章受賞。浜松市の名工として表彰される。

1980年12月、84歳で逝去。

参考文献

  • 大橋ピアノ研究所「人技あればこそ、技人ありてこそ」創英社 2000年
  • 浜松市楽器博物館「ピアノづくりのれきし」浜松市楽器博物館 2002年
  • 前間孝則・岩野裕一「日本のピアノ100年」草思社 2001年
  • 浜松市商工部工業課「浜松の名工」浜松市商工部工業課 1987年