竹山 祐太郎 (たけやま ゆうたろう)
1901(明治34)年~1982(昭和57)年
政治家
磐田郡見付町(現・磐田市見付)に生まれる。
中泉農学校(現・静岡県立磐田農業高等学校)を経て東京帝国大学農学部実科を卒業、農商務省農務局(現・農林水産省)に入省。農林技官として農村の自力更生運動に取り組み全国各地を回った。また、1941(昭和16)年からは東京高等農林学校(現・東京農工大学)教授を兼任した。
1945年、農林省を退官。全国農業会(JAの前身)指導部長となる。1946年、周囲から推される形で第22回衆議院議員選挙に立候補し初当選。以後連続9回当選。1954年、第1次鳩山内閣で建設大臣として初入閣する。その後は自民党国対委員長、副幹事長を歴任するかたわら、日中国交回復の推進に尽力した。
1967年、自民党県連の強い要請により静岡県知事選に出馬、当選する。在任中は田子の浦港のヘドロ問題の解決や国立医科大学の浜松への誘致等重要課題を実現させた。1974年、知事を退任、そのまま政界を引退した。
県知事時代には、磐南地域の農民の長年の願いであった船明ダムの建設に尽力した。その功績をたたえて、ダムの左岸記念公園には彼の顕彰の胸像が建てられている。
1982年、81歳で逝去。
参考文献
- 竹山祐太郎 「自立」 竹山祐太郎自伝刊行会 1976年
- 静岡新聞出版局 「静岡県歴史人物事典」 静岡新聞社 1991年
- 静岡県 「静岡県史 通史編6」 静岡県 1997年
- 寺谷用水土地改良区ホームページ